ーロマン派時代ー
リスト(フランツ・リスト)
1811年10月22日~1886年7月31日
国籍:ハンガリー
リストはエステルハージ侯爵家の執事の息子としてライディングに生まれました。
父はハンガリー人で(といってもリストはハンガリーでの生活はせず、
ハンガリー語も話せませんでしたが)母はオーストリア人でした。
かつて宮廷楽団でチェロなどを演奏していた父から幼少の頃より音楽の手ほどきを受け
6歳ごろからピアノを習い9歳で公開演奏会をしました。
1821年10歳でウィーンに出るとチェルニーにピアノを、サリエリに作曲を師事し
22年ウィーンの楽壇にデビューしました。
その後パリに赴き音楽院に入学しようとしますが、外国人であることで断られ
パエールやライヒャから個人レッスンを受けることとなります。
その後の彼は、イギリスなどへ楽旅を重ね各地で名声を博しました。
その一方で25年には歌劇『ドン・サンシュ』を作曲します。
そして33年にはタグー伯爵夫人と恋に落ち、やがて同棲生活を始めます。
(3人の子供を儲けますが、その次女コジマはワーグナーの2番目の妻となりました)
この時期彼はジュネーブ音楽院でピアノ教師を務めながら『旅のアルバム』などを作曲。
42年からヴァイマール宮廷楽団の客演指揮者を務める一方で、ピアノの卓越した技法を武器に
全ヨーロッパで演奏活動を展開します。
その後はピアノのための『超絶技巧練習曲』や『タッソー』『マゼッパ』などの交響詩
『ファウスト交響曲』『ダンテ交響曲』などの傑作を生み出し
指揮活動ではワーグナーのオペラ『タンホイザー』『ローエングリン』などのタクトをとっています。
しかしこの頃から次第に宗教や教会との関係が深まっていき65年には僧籍に入ってしまい
作品も宗教的なものへ変わっていきました。
69年以降は、ヴァイマール、ローマ、ブタペストなどを拠点に晩年の音楽活動がなされていき
71年にはブタペスト音楽院院長となりました。
その後、ワーグナーの『トリスタン』を聴く為にバイロイトを訪問した際、急性肺炎になり
86年に74歳で亡くなりました。
リストはピアノのヴィルトゥオーソとして鳴らした作曲家ゆえに
高い演奏技法を必要とする作品が多く、オーケストラでは交響詩の世界を確立し
新たな標題音楽の道を開きました。
彼の音楽は後の時代のワーグナーの歌劇への導火線ともなったのでした。
♦主要作品♦
【管弦楽曲】ダンテ交響曲 ファウスト交響曲 【交響詩】タッソー 悲哀と勝利
マゼッパ オルフェウス ハンガリー プロメテウス ハムレット
【協奏曲】ピアノ協奏曲第1番・第2番 【ピアノ曲】パガニーニによる大練習曲(3曲目ラ・カンパネラ)
愛の夢 超絶技巧練習曲 ピアノ・ソナタ ロ短調 メフィスト・ワルツ第1番