ーロマン派時代ー
チャイコフスキー(ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー)
1840年5月7日~1893年11月6日
国籍:ロシア
鉱山技師の子としてウラル地方のヴォトキンスクという田舎町に生まれたチャイコフスキーは
5歳頃から家庭教師にピアノを習い始めました。
8歳の時、父の転勤でペテルブルグに転移し、50年にペテルブルグの法律学校に入学します。
この時期、キュンディンゲルというドイツ人にピアノや音楽理論を師事します。
その後、59年に学校の卒業と共に法務省へ勤務しますが音楽への情熱は絶ちがたく
62年ロシア音楽協会付属の音楽学校(後のペテルブルグ音楽院)に入り
ザレーンバに音楽理論を師事します。
そして63年、法務省を辞め進路を音楽に絞りました。
65年には音楽院を卒業し、翌年からルビンシテインが開設したモスクワ音楽院の教授となります。
その後68年に『交響曲第1番』が初演され、75年『ピアノ協奏曲第1番』が作曲されました。
また『鍛冶屋ワクーラ』がオペラ作曲コンクールで第1位になります。
77年にはかつての教え子のミリュコーヴァから求婚され押し切られるように結婚しました。
しかし2ヵ月後、神経を病みモスクワ河に入水自殺未遂を起こします。
ついには逃げるように別居しました。
しかしこの年、彼の音楽の崇拝者で大富豪の未亡人フォン・メック夫人が
年間6000ルーブルの援助を申し出てくれ『白鳥の湖』や『フランチェスカ・ダ・リミニ』も初演。
教職を退いた彼はその後も『ヴァイオリン協奏曲』などの傑作を次々に生み出します。
90年にはメック夫人から援助打ち切りを通達され交流が終りますが
すでにその頃はある程度の収入があり、生活に困窮することはありませんでした。
90年以降は国外公演も多く、ヨーロッパ大陸だけではなくイギリスやアメリカにも出掛け
93年にはケンブリッジ大学から名誉博士の称号を贈られました。
その年、ペテルブルグで『悲愴』を初演しますが、その約1週間後そこでなぞの死を迎えます。
うわさでは、ある公爵の甥との同性愛が発覚し処罰されることを免れる為
秘密法廷によって毒物による自殺が促されたといわれています。
チャイコフスキーの音楽は、ロシアの風土と精神に密着しつつも
西洋音楽の伝統や様式が取り入れられている大変美しい旋律が特徴です。
♦主要作品♦
【オペラ】エフゲニー・オネーギン スペードの女王
【バレエ】白鳥の湖 眠れる森の美女 くるみ割り人形
【管弦楽曲】交響曲第4番 6番悲愴 幻想的序曲「ロメオとジュリエット」
祝典序曲「1812年」 【協奏曲】ピアノ協奏曲第1番 ヴァイオリン協奏曲
【室内楽曲】弦楽四重奏曲第1番~第3番 ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出に」
【ピアノ曲】四季 グランド・ソナタ